遠藤実再発見 !

作曲家の遠藤実と上野しげきディレクターの対談を記憶したものだ。

早朝の4時7分からの放送を何故?どういう目的で記憶したのか?

思い出せないでいる。

その言葉に心洗われる思いだ

今の日本人が忘れたものを彼は大切にしている

4日間かけて思い出したものを書き留めてみた? !

信じて欲しい・・・・・



「我が夢追い人生」
遠藤実 作曲家・ 対談 上野繁樹 ディレクター 
(昭和7年1932年生まれ71歳)
代表作・・・「高校3年生」「からたち日記」「お月さん今晩は」「北国の春

上野・・遠藤さんはこれまで実に数多くのヒット曲を生んでこられましたけど全部で何曲くらい作ってらっしゃいますか?
遠藤・・そーですね、あのー著作権協会に登録している歌だけで4000とちょっとで、まー本当に忘れておりますんですから他の数を入れますと5000曲くらいは作っているんではないかなと思いますね。えー

上野・・大変なもんでございますね

遠藤・・いいえ随分産んだと思います.多産系です。

上野・・いえいえ、その中でも「北国の春」「道ずれ」「他人舟」「高校3年生」数え切れないヒット曲を生んでこられたんですけれども今や「北国の春」なんかは中国から東南アジア広く世界に親しまれておりますね。

遠藤・・えーそうですね、お蔭様で、ですね「北国の春」に続いて「星影のワルツ」「道ずれ」そういったもの何故か私が書いたあの暗くなくそして哀愁がアルといわれているドミソドというメジャーな曲アジアの方世界の方に好かれておりますね、

上野・・あのー遠藤さんはこの歌を、歌の道に入られたんですけれども、遠藤さんは昭和7年のお生まれでございますですね。そうしますと少年時代は戦争のさなかという・・・

遠藤・・・はいそうですね疎開を小学校5年生から両親が新潟に、エー東京は墨田区当時は向島といっておられましたが、そこから疎開をするんですね西蒲原郡と言う穀倉地帯ですね見渡す限りの田んぼと畑、えーそこにいきなりですね疎開をするんですから家並みのアル本当の下町ですから、そういうところから、あー全く風景が一変したと言うところに疎開をして、まー友達もいなく寂しくてですね、でーそのおふくろ方の家の4畳半に両親と兄と私と妹と弟とがお世話になるですから、マー子供同士あちらにも子供がおりましたお袋の姉さんに当たる家ですけれども子供同士の争い劇が溝が深くなって、そこ                
NO,2
もまた3ヶ月くらいで出て海沿いの日本海側の難や内野とかいてうちのと呼びます。そういう内野町に又転校するということですね、マー最初にあのー転校してですね授業を受けたのが唱歌という音楽の時間ですね、そこで歌って歌がですね丁度春だったものですから5年生の新学期の春ですから「おぼろ月よ」という歌を歌いました。エー若い先生、女性の優しそうな先生がオルガンを弾いてくれましてです 
                                      
ね、そこで「菜の畑―の」と歌いだして寂しくなって、そして小さな音楽教室のガラス窓の方にいってみましたら見渡す限り、そのガラス窓の向こうには自分の今歌ってる歌の歌詞と風景と一体なんですね、そんな中で歌を歌った事って疎開して初めて体験した事なんですね、ですから感動しましたねー
落穂ひろいの絵を見た時も感動しましたが私はその菜のはた畑に入神するというその歌ってる歌詞とガラス窓の向こうに見える菜の畑がズーット見えてですねもう農家の方が鍬を抱えて、そして行き交う時頭を下げてその風景がまさに落穂拾いですよね。私は大感動して歌を歌いながら歌を聞きながら熱い涙がこみ上げてきたと言うのが、そのときが初めてでした。

上野・・あのー東京から疎開されて当時ですね、えー疎開させられた人たちの苦労と言うものは大変なものであったと伺いますけれども遠藤さんご自身のその歌に慰めは得られたのですが非常にご苦労が多かったんじゃないでしょうか?

遠藤・・・マーとにかくご飯が食べられない、あの穀倉地帯に行ってさえ農家の人お米を作ってる人でさえも全部政府に供出するということで作っている人が食べられないのですから我々その疎開の人は全く本当に細々とした配給でもって飢えを忍んでいるということですよね、子供ながらに今の方が聞いたら笑われますがお腹一杯真っ白なご飯を塩をかけておかずも何もいりません塩をかけて、そしてお腹一杯食べられたら死んでもいいと本当にその様に思った時代ですね、それは私の家ばかりじゃなくて子供の頃はみなそんなふうに思っていましたねそんな時代がズーット続くんですよねーえー東京の学校が4年生で終了して5年生の春に疎開をしたわけですねー上野の駅からですねえー鈍行に乗ってその時はもう上野の駅は物凄い人ですよ戦争に行く方ね勇ましく軍歌を歌って送られる方ねもうごった返しだったですね10数時間上野から新潟までいまは1時間50分で行きますが、その当時はおそらくその夜行に乗って新潟のそのおふくろの実家のあるところまで着くのに、やっぱり朝お昼近くかかりましたからね乗り換えたりしましてね。

上野・・そうしてーそのー小学校時代を新潟で過ごされるわけですが、その後のですね、そのー歌はもうその頃からお好きでいらっしゃいましたか?
遠藤・・いわゆる「おぼろ月よ」をうたって涙が出てマー確かに自分には慰めてくれるものがないというような、マー実際そうなんですね友達もいないし、まーだんだんだんだん疎開してきた友達が増えてマーそのグループで友達になりましたけどね、でも寂しい思いをしたんですけれども大自然のある                                                            
NO,3
その穀倉地帯の新潟でもって体験した事が非常に私はためになったと思いますね、例えばお腹がすいてタニシをね拾いにいってご飯代わりに食べるんですよタニシの拾いにいって感じたことはですね、ひときわ大きなタニシを見つけて、そして喜んで手に触れて拾おうとしますと指に触れただけで叩きつけなかったら割れないようなタニシの殻ですね最中がカラカラと音をたてて崩れるように大きなタニシが壊れてしますうんですよ、どうしたんだろうこのタニシはと覗いてみたらそれはそこには米粒のような赤ちゃんタニシが沢山詰まってるんです。あーあこれはお母さんタニシなんだなーお母さんタニシが身を生きながらに自分の身を子供に食べさせて亡くなっているのにすでにねカラスや雨や風から子供を守ってるこの姿これを見て僕はお袋を大事にしなかったらいけないんだなーと、タニシのお母さんが教えてくれましたね、それから大きな杉のてっ辺に上がって、こんな木をよくカラスが集め、からスの巣があるんです。木に登って赤ちゃんを1匹盗んできて、そうしますとカラスがね物凄い、もーそのー沢山仲間を集めて、その子供をですねーあのー取り返しに来る、そうするとカラスの親子の愛情みたいなものがですね、ひしひしとモー迫ってきましたね。そういう自然の中で学ぶものがありましたね。そして苛められて泣くのが、泣いてる所を見られるのが恥ずかしいですから菜の花の畑の中にもぐり込んだらば、その菜の花の花の香り東京にいたらねとても花の香りなんて少年時代に味わうことができなかい。そうてんでは大変良かったと思います。それと同時にその歌に対しての思い歌しか優しくしてくれない。だから冬なんかは学校をサボっていても雪が深いですから寒くてねサボれないんですよ春になるとですねもう学校に行ってくるとねみんなが学校の裏山にいって、そして松ノ木によっかかって、そうしたら丁度そこから日本海が見えて晴れた日は佐渡島も見える佐渡の方から吹いてくる風が松の枝を揺すってシューシューああ松風も歌うんだ松風の歌なんだ潮騒の歌なんだ、そうすると自分のですね涙に流して東京の友人を思い出すんです。思い出してるうちに泣いてしかいなかった私がいつか気がつくと一つのメロディーを口ずさんでる、このメロディーってだれのメロディーなんだろう?軍歌かな子供の頃おふくろから歌ってもらった童謡かな?あの歌かこの歌か?と探してたけど誰の歌でも無い。つまり自分が悲しくて、そして熱い涙が先達になって僕の心からのメロディーをですね湧かしてくれたんですよ、それが僕が音に入る最初の音との出会い。それから戦後―岡晴夫さんの「東京の花売り娘」や並木美知子さんの「林檎の唄」とか色々の歌、田畑良雄さんの「帰り舟」その歌がラジオから流れた時ね曲がりかかろうとした気れかかろうとしましたよ貧しくてですね、そして農家の小屋を借りていたものですからランプの生活です。みんな友達のとこは電気が幾ら田舎でもありあました私のとこだけが小屋ですから電気がない。でもお陰様で小屋磨きという大切な経験もさせてもらった。その歌を聴いたときに特に「東京の花売り娘」を聞いたときに歌って凄いなーいつかは曲がりかかろうとした心が治って俺も歌い手になりたいな人の心をこんなに暖かくこんなにロマンチックな心にしてくれるんだったら歌い手になりたいというドンドン歌への思いが高まっていったんですね。

上野・・そのーあのー新潟で苦労された他の友達の家にはあのー電灯があるのに自分のうちには電気
がなかったがということで非常に貧しさを味わられ虐めにも合われたということですが、そういう具体的にこんな辛い面があったと言うような?
NO、4
遠藤・・そのですね辛さの底辺がわからに無いんですよ子供ですからこれが辛いなというですねことが分かってからその辛い思いをしたなら僕は生きていられないかったんじゃやないかと思うんですよ

上野・・そのぐらい辛いんですか?
遠藤・・ええ、−だってその辛さの底辺が分からないんだもの小屋を借りてますから、で日本海の浜沿
いですから砂地なんですよ砂地の上に板をひいてそしてゴザをひいて生活をしていることが如何に貧しいことかということさえ分からない。ですから小さいお袋が児童参観日に来たときに後ろを振り返って「母ちゃん」って手を振ろうとした、後ろを見たら友達のお母さんは若くて、そして小奇麗な恰好をしていました。もう戦争が終わる間際です。私20年に小学校6年を卒業して高等科という制度に入ったんですね。「母ちゃん待って汚い母ちゃん待って2度と学校に来ないでくれ」ってお袋を困らせたことがありました。それがタニシのお母さんを見ていけない、誰かのためにお袋がぼろをさげてみすぼらしい恰好しているのかと、みんな子供を育てる為じゃないかと僕を可愛がってくれるためジャや無いかという事がタニシのお母さんに教えられたんでしょうなー

上野・・そうしますと新潟で丁度、小学校6年卒業の頃に終戦を迎えられて高等小学校へ入られてその後歌手への修行はどの様に?

遠藤・・・ええそうなんですよ
結局あと1年学校に進学したら今の制度の中学の第1期生ええ新制中学校の卒業免状を貰えるんだ遠藤君学校へ来ないかと学校の先生に勧められました。学校に行きたかった、で新潟に行ってからの父親は新潟の刑務所の監士になって囚人部隊を連れて埼玉で飛行場を建設して戦後痩せて骨と皮ばかりになって玄関のところに来たら倒れるような状態ですから働き手が欲しいんですねもう1年の学校の進学もどうしてもやってくれないお袋にね、もう1年でいいから学校にやってよといったらば何回か言った最後もう私言わなくなったそのきっかけは物言わぬお袋の背中が震えているんですよ、そして震えてる背中を見てね実ゴメンねとお袋が背中を見せてね、おっこちる涙を子供に見せたくなくて上を向いてね謝ったあのひと言から2度と学校に行きたいという事はいうまいと私思いました。それが後にですね随分話は飛ぶんですけれども、そういった思いが私の人間と言うのが人生生まれて終わるまでね一こま一こま焼きつけさせてゆくフイルムが入ってるように思うんです。私の場合はそうなんです。心に感じたことが全部フイルムにね焼き付けておいたんですね、そのフイルムがいつか自分のスクリーンに映し出して生まれた歌が舟木一夫君の「高校3年生」等々になる訳ですね。新制中学ができて本来ならば義務教育敏とレてゆけるのにそこへいけなかったといういける余裕がなかったという兄はず                                             
ーつと腎臓病で寝ているそして父親は体を壊しているジャーそこの生計は何で立っている?といえばですね。お袋が痩せて小さなお袋が人の松林に入って枯れた松枝や松葉をかき集めてそしてそれを薪

NO,5
として売って生計を立てているわけですから早く働き手が欲しかった。そして僕も紡績工場の工員になるわけですから・・・
上野・・・紡績工場の工員さんになられて、しかし歌のみちに・・・

遠藤・・・そんでもって、あのう幾つモノ新聞配達をしたりガラス工場のビン作りをしたり、それからかど漬けといって1件1件竪琴をひいた人と一緒に伴奏してもらいながら農家の庭先でもって歌って歩くという、そういう生活をしておしん物語じゃありませんけれども1年間1万5000円で持って農家の赤塚村という所に住み込みで行って、そこからやっぱり歌い手になりたいということで東京に出てくるのが昭和24年の7月の20日なんですね。

上野・・・そうしますと色んな職業されて時には工場の工員さんになられ、その後その工員を辞めて
えーかど付けをされ歌って歩かれたり、そういうことで

遠藤・・・・それ旅代わりの楽団の専属になったんです紡績工場に来てくれたですね楽団の、ところがそこも3ヶ月で解散になってしまって最後の時がですね私には忘れる事ができない長岡の豪雪地帯の更に何も無いような小さな駅で降りてまっすぐ来たら今日の最後のステージだという小学校がある先輩達はそりに乗っていってしまった。そのそりの鈴の音を聞きながら歩き出すんですね、そしたら猛吹雪すでに雪が溜まっている風が下から煽りあげて地吹雪といいます風が吹き荒れたのは新潟では地吹雪といって地吹雪の中また今度又吹雪いてくる1メート先見えなくなった小太鼓と楽譜の入ったトランクを持って歩き出した私は堪らなくなってもう手が感覚を失って、そこに荷物を投げ捨てるようにして捨てて尾籠の話ですけれども自分の手にかけた、そのときですよ貧しいですけれども自分にははまだこんな暖かいものが残っていたんだと俺は負けないぞと俺はやるんだという執念のようなものがそのとき湧いてきて、そういう風にまだ暖かいものが残ってるという小便をまだそういう風に感じたから私がまだ生きてこられたと思うんです。あっという間に嘘のようにその吹雪きは収まりました。そして空を見上げた時もう冬空満天の星なんです。それが又心のフイルムに残って、いつか「星影のワルツ」を書かせるということになるんですね

上野・・・そうしますと遠藤さんのその曲の後ろには素晴らしい映像が、思い出の映像があるんですね。

遠藤・・・ハイですからそれを写しながら書いているというような・・・で結局最初のヒット曲は「お月さん今晩」はという事になるんですけれども」これはあのう農家に住み込みに行った時、砂浜の畑の
・ ・・もう明日はね東京に行こうと決意をしてで丁度お祭りでもって花火が上がる村の荷物をねトラン                                          
・                                    

・                                    
・ NO,6
・ クをね隣の家に預けておいて15000円全借してますから途中で逃げるというのは本当はいけない事なんですがもう歌い手になりたくて堪らなくなって私は砂浜のね砂山の畑の中に立ってねお月さんを見て明日は東京に行こうと思うんだとお月さんねいままで自分には幸せがありませんでしたと東京に行ったらね歌い手に成れるのかね?いいことがあるのかね?今夜の夢でいいから教えてくださいと懇願した事をあるんです。それもフイルムに収めていたんですね自然にそれが鈍行列車に乗って昭和24年7月の20日に新潟から黙ってそして鈍行列車ですから一駅一駅止まりながら上野まで十何日間かかりました、その中ではがきで僕が「母ちゃん俺やっぱり東京に行くよ東京に行って歌い手になるよ戸籍を汚すような事はしないよ必ず錦を飾って故郷に帰ってくるよ」というはがきを投函したことを思い出されますね。

                                        
上野・・・・その農家に住み込まれまして15000円前借されていた、しかし歌手になりたい希望一杯で東京に来られた。そうですね「お月さん今晩は」

遠藤・・・それが結局ですね、それからマー流しをろくに引けないギターを弾きながら独学でだんだんだんギターを覚えていって、その鉄線でガットギターがありますからフォークのように全部鉄線だったんです指が切れて其れから血がにじんでくる、この痛みがドだとこれがレだファだソだといって音を体に傷つけて掌握したといっても決して私の場合はオーバーな事を言ってるとは思われません。

上野・・・・ハイ分かりました。それでは最初のヒット曲といわれる「お月さん今晩は」をですね。チョット聞かせていただきたいと思いますがよろしいでしょうか?

遠藤・・・・はい

上野・・・あの藤島武雄さんの歌われた「お月さん今晩は」本当に懐かしい曲ですがこのヒット曲をだされるまでは大変だってのではないですか?

遠藤・・・・ええ東京に出てきまして流しをやりましてですね、えーその当時はライス食券食堂といいまして証明をだすと出されて食べていたんですね、これは三鷹のライス食券食堂でした。で蝋で作ってある丼モノの見本がありますねカツ丼の見本を見てね先ず東京に来てね私の夢はこのカツ丼を食べたい時にいつでも食べられる自分になりたいと寒い冬でも寒く無い冬がね買いたい背広が上下1着が欲しいというのがね2つの私の夢だったんです何時も定食です。秋刀魚の開きを食べながらカツ丼の見本を見て今日はでかい厚いカツ丼だなっていってパクついてるから、そしてギターを裸で持って背負ってる男が奇異に見たんでしょうね、そこの女の子が秋刀魚の開きパクついてそのカツ丼の蝋で作っ                                                

NO,7
た見本ばっかり眺めてるんですから、そうしましたらいつかアー行きましたら頼みもしないねカツ丼がドンと出されるんです。何を間違えてるのかと僕はこんなもの頼まないよといってその女の子を呼んで言おうとしたらその女の子が側に来てですね「私のオゴリ」って言うんです。「アー本当」ってそのカツ丼をもう抱きしめてかぶり付いて喉も鳴りました涙もでました美味しくてねソレガ縁でその女の子と女房になるんです妻にするんですがね結婚するんですけれども、その「お月さん今晩は」作ったっ時にまー最初が古材ヲ集めて1畳くらいのベットを作った。雨が降ると雨漏りがする相棒の家で世話になる。それから2畳というですね色花があって玄関の2畳の部屋で間借りをして、それから4畳半になってラン
                                       
クは上がっていったんです。だけどそこがモー兎に角全部あのーベニヤに新聞が張られてあって雨降って雨漏りが凄くてズルズル新聞があのー下がってきてそこにナメクジが無数に出没してナメクジが這うんですよ、そして僕はもう歌い手も駄目だと何処にいってもねみっともないような恰好で行っても相手にしてくれないんですよレコード会社も、「だーあの恰好じゃー」というマイクで聞こえてきちゃったんですよ審査員がしゃべってるのがスピーカーから、それでガックリして今度はね、よしあの歌をね
疎開をして学校をサボった時にメロディーが湧いた俺だって歌を書けないわけはないという一念発起をしてですね作曲をしだすんですね。
上野・・最初歌手を目指されて・・
遠藤・・・でもそれが駄目でね幾つものレコード会社に回ってもねそりゃ10年も前に買ったサンダルを何年も履いていてホトンドかかとが擦り切れてる突っかけてる部分しか残っていないような、そして田んぼではいた作業服を着てねレコード会社にいったって誰も相手にしてくれませんよ。幾ら終戦後でも、そしてナメクジがはって糊で描いたように光るんですよ、ナメクジの這ったその描いた糊の線を伝っていったら砂浜の畑に、僕は東京にいったら幸せがあるのかって言った先ほどの話にぶつかるんですよ、そして出てきたのが余りにも故郷の月を浮かばせて自分尾の今度スクリーンに浮かばした故郷の月を見てなつかしいものですから今晩はって言うんですよ、あれ?お月さんにねこんばんはって言った唄があっただろうか?そこから「砂浜のお月さん今晩は」では。砂は色も無い香りも無いロマンも無い悲しすぎる迷って考えてから三橋美智也さんの「りんご村から」という歌が流れてきた。あっ !林檎畑のお月さん今晩はにしようという、そこがこの歌を作らせるんですね、で裏町であったベテランの作詞家の町村またいち先生が詩を書いてくれてはめ込みをしてくれてこの歌が最初の大ヒットになるんです。

上野・・・・昭和24年に東京に出てこられてこの大ヒット曲が生まれたのが昭和32年でございますねーしかしね作曲されるこの音楽も独学・・・・・

遠藤・・・そうですね26年ごろから作曲をし初めて、あの歌い手になるときはこの名前で成ろうと
星ゆきおというペンネームで何曲か日本マーキュリーの専属になってやっていましたがもう星ゆきおNO,8
なんてね君らしくないよとね、そういう2枚目でも何でもないのにね星幸男なんて2枚目過ぎると遠藤実といういい名前があるじゃないかと松村先生に諭されて、そして遠藤実改名した第1作が「お月さん今晩は」大ヒットするんですね。

上野・・・本名遠藤実で作曲されたんですねー
この一口で言いますけど歌手の道を諦められて今度は作曲の道この勉強と言うのも大変だったでしょうし奥様の内助の功と言うのも大変だったでございましたでしょう・
遠藤・・・そうですね、本当に妻も若かったですから一緒になった頃からですよ私が流しの生活をして100円貰うのに3曲歌う3曲100円でもってまー5−600円稼ぐ時もありました、其れをしわを伸ばしてそして枕の下にひいていて、そういう事をやっていたら妻は最初ね金の亡者かなと思ったらし
                                    
いですよ私はそうじゃなくて自分が暮らしてご飯を食べられた其れの最低のお金だけを残して故郷の新潟の両親に仕送りをしたんですし送りをしてくるととても気持ちい気分になるんです、そういうことをしていますからお化粧をしたくてもお化粧品も買わなくていりません口紅も要らないおしろいもいらないといって、その仕送りに協力してくれたんですね、だけどいつかですね口紅は要らないおしろいはいらないっていっている割合にね唇が赤いんですよ、どうやって化粧しているのかなって思ってみていましたらアコーディオンの相棒の家の子供たちそんな大勢ですから子供さんたちが使って使い古した赤いインクのビンに小指を突っ込んでそのね、インクを塗ってる、これ見たときは私は涙が出ました。
おしろいはどうするのかな?と思ったら、粉は磨きの、粉は磨きの粉をつけてる。「そんなのつけて大丈夫かい?」って言ったら。「すすーしてしかも気持ちがいいわよ」  ソンな風にして耐乏生活に耐えてくれましたねー

上野・・・あのーお二人のご夫妻の生活でも大変なのに、そっからあのーご両親の元に仕送りされたわけでございますねー

遠藤・・・は・はい・
私思うんですねーんー神仏にこんな風にいわれてるような気がして堪らなかったですねー当時は「貴方には直接お金は授けることはできないけれどもお金では買えない素晴らしいきれいな音をね授けてあげようと」ですから私が作るメロディーは私の心に感じたことが魂の波動となってその歯動が音に変わっている。私が作ったというね観念が無いんですよ。歌神様が作ってくれたのを私がタマタマ魂の波動を受けて五線詞に音符をならべてるという様にいまでも思っております。

上野・・あのー遠藤さんは「最近春の無い冬はない」と言う曲を作曲され作っておられますが
まさに強い希望をもって生きてこられた遠藤さん、まさに常に春を夢見て苦しみに耐えてこられたといNO,9
う意味でございますか?これは?

遠藤・・・はい
拉致被害の皆さんが羽田から飛行機から降り立って家族と抱き合うこのシーンからズーット私は見ておりました、そして本当にこの悲しさの中で私達は学ばなければいけないことがある、アー痛切に感じたことは家族愛ですね。いまの日本をみて年とって一生懸命に私達を育ててくれた親にでさえ、こんな年取ったお父さん汚くてお母さん汚くて嫌だというゆう様な風潮が余りにもありすぎて、皺は人生の勲章ですよ。お父さん皺が出るほど黒髪が白髪に雪色に変わるほどに僕たちの為に頑張ってくれたという心になってほしいという教えがある。あの拉致家族の人たちが抱き合った涙は光っていた。私も日本海でもって海を見ながら自分の悲しい時歌を歌った海で、そして泳いだこともアル荒波を見て親父の怒鳴ってる声にも聞こえた。そのあの日本海から拉致をされた方が何人もいるということに衝撃を受けてね私達音を持っている人間は、音によって拉致被害にあった家族そしてご本人のその痛みをね、何とかし                     
て励ましたいという春が来て花が咲くようにね、必ず春は来ますから今は苦しくとも頑張ってくださいよという、そんな心でもってツイ自分が詩をかいて作曲をして、そしてこの歌は先ず自分が歌うと仁方のあの匂いをあの海の香りを知っている私自身がね私自身が歌いたいというようなことからこの歌が生まれたんです。

上野・・・それでは『春の来ない冬は無い』遠藤さんご自身の歌でお聞きいただきましょう。

遠藤・・・・家族会の横田会長さんを初め本当にね認定された拉致被害の皆さん、家族の皆さん、ご家族の皆さん本当に頑張ってください。そして私達のもっとモットえーこのー支援をできるだけしましょうよ本当にそう叫びたいんですね。

上野・・・そのお心をこめて作られた歌がこの『春は来ない冬は無い』ということですね。

2回目

上野・・・・遠藤さんご自身は昭和7年のお生まれで昭和24年に疎開先の新潟から東京に出てこられて歌手を目指されたということですけれども17歳の頃ですよね丁度17歳の高校時代ですよね。
遠藤・・・いヤまだ本当に
上野・・・・昭和24年の東京といいますと上野駅に着かれて駅の様子もまだ貧しかったんでしょうか?
遠藤・・・ええそうですね上野の駅の近くはですね家を失った人達、戦争から帰ってきても家が焼けて無い人たち、そういう方たちがズーットですね寝起きをしているような状態だったですね、というのは私
                                    
NO,10
が昭和24年に7月の20日に向こうから出てきて上野で友人も◎◎の方にでてゆくということで電話をかけて、その友人が綿やの行商をやっているご家族なんです。そこでもって居候をすることになっていた訳ですけれども電話掛けたんですけれどもなかなかでないんですね私は地下道で2日とまるはめになってしまったんです。そしてその人たちと一緒に泊まっていましたら2日目の夜ですよ・・・・・・・・・・・・
一人の人がですね当時の流行っていた「泣くな小鳩よ」を歌い始めたんです。戦争の為に奥さんをなくされた方なのか戦地で戦友を無くされた方なのか?そのかたが一人「泣くな小鳩よ」を歌いだしたらあの地下道のところに響いてね5人歌い10人歌いそこにいる人たち全部が大合唱になったんです。そのときですね僕はこの歌の道を選んで良かったー歌って素晴らしいんだな何が無くともここから立ち上がるんだというね、そいう素晴らしいパワーさえね、あんなに寂しい中で感じることができました。歌と言うものは形が無いわけですがね、しかし存在はしている形が無くて存在しているものというのは永遠のものです将来腐らないものではないでしょうか?私はソンな風にして歌の強さと言うものはそういうところにあって腐ることなくそして良い歌は心の中にしみ込んだならもう離れないですね
そして愛唱された歌というのは何十年経ってもその歌を歌うことによって時代背景とか町並みとかそして秋なら秋の匂いが春なら春の匂いが冬なら冬の匂いが匂いまでが思いでと一緒に連れて来てくれるというそういうことにおいては素晴らしい仕事をさせていただいているなーと気持ちで一杯ですね。

上野・・・・・その後東京に来られてからですはね-ワカメの行商をなさったということですが、その後そのギターを流して歩いたとも、おっしゃいましたが・・・・・・
遠藤・・・・・・・そうですね。ワカメの行商をしましてね、秋葉原から海草問屋にいってですね、えーベテランのワカメの行商についてってそれを乾燥ワカメを買ってきてそれを水にうってノシロをかけてそしてこまくですね、ばら売りにするようにちゃんとワカメを作るんですね。随分杉並の方より遠い烏山の方とか行商に行きましたね。そこで得たお金を先ずまとまったお金は支送りをして
上野・・・・ご両親に仕送りされて
遠藤・・・・そうするとですねおふくろから手紙が来るんですよ「実ありがとう母ちゃんも元気だよ」鉛筆の便箋の手紙を見てね、その手紙がどれほど私にね支えになったか、其れを見ながらポロポロ泣いてですね電車に乗ってね手紙を見て泣くんですねー10円区間だけかって泣く場所もないんですよ、マーケットの屋根裏に住まわしてもらっていますから泣いたら分かるし、泣く為に僕は10円区間だけ切符をかってね山手線でぐるぐるぐる回ってね、読んでは「よーしやってやろう」というエネルギーを湧かしたものです。母ちゃん元気だよ元気だよといいながらも鉛筆のあとが薄いと嘘ついてるな母ちゃん疲れてるなーという、だからそういう寒い思いをしなければ人から与えられた温かさがですね、嬉しいなーありがたいなーという心にはなかなかなれないと思いますね。僕はそういう意味でね私が歩いてきた人生と言う道のりは砂利道であってね、そしてそこを最初は裸足で歩き出したと思うの足のつめを剥がしてそこから流れ出る血の痛さ、そうですね思いながら噛み締めながら歩いてやがて皆さんがあるく道を歩けるように、靴も足にあった靴も履けるようになってきたと、でも私は歌を作る作曲
                                  NO,11
家として職業を選んだ場合は、それはもう恵まれて音楽大学まで出て、そして最高の勉強をした方がもっと素晴らしいものを書けたかもしれないんですけども私は砂利道から歩き出して裸足で歩き出してそして15円くらいのサンダルを履きながら新潟から上京ししてきた、そうしたことが決して無駄ではなかったと思いますね。当時のやっぱり東京も新宿はさすがに発展するだろうというですね雪国があって庭も何かもついてました。吉祥寺の方がね、そういうようなネオンが所々についてまして・・・
やっぱり東京で9年間流しをしていますとやっぱりいろんなことがありましてでも女房といっしょになった当初は1番女房もし良く食堂や何かを手伝って夜の遅い仕事をしたり私も遅くなって終電車に乗って荻窪の駅で降りてそして決まってラーメン屋にいってら0ラーメン食べるのが唯一の2人のね楽しみなんです。そこでそこの親父さんがですねもう亡くなったそうですけど大和軒と言う親父さんが僕達夫婦を見てねお客さんがその日全部食べたあのー割り箸を丸く纏めてくれていて何か煮たりするときに使いなさいよって、そういって、その割り箸を抱えて帰るんですよ、それでご飯を炊いて・・・・作って暮らしてる。でも4畳半のナメクジが這い回るといったね、その4畳半入ったときは4畳半でね机を置いたら寝るところもほとんど無いんですよ。マーその頃は本当に食べるものが無くてお米を買うのも大変で、いつか面白いことがありました。今日は五目御飯をね、つくりましたっていうから、田舎でもってお祭りの時に農家にいってご馳走になった、あの五目御飯だと思って喜んで待っていたら,よそられてきた五目御飯を食べたらゴボウみたいなものばっかりで、そのー大根とかね、その周りにご飯粒がくっいているようなもので俺を騙したなといって僕は初めてですね茶碗をね、食べるものをぶっけたというのは後にも先にもこれ1回だけですけれど自慢になりませんですけれどもマー妻は節約しながら何とか喜ばせようとしてくれた。でもご飯を投げ捨てたことに対してね、本当に悪い事をしたと思っております。そういう思いをしながらもだんだん「お月さん今晩は」という歌がヒットを飛ばして藤間たけおさんとのコンビで作った「あの子何故泣くの」「タコ上がれ」「炭鉱恋歌」とか続けて連続してヒットするんですね。それからそのマーキュリーっていう会社が解散になって、そして仲間達先輩の先生方は東芝レコード会社というレコード会社に行ってしまう私は誰も呼び手がいないビクターの吉川しぞう先生がういちの会社に来なさいと迎えてきtれくれたんですけど、どうしても私は古賀先生がいる会社で仕事がしたいと子供の頃からコロンビアのマークを書き続けていたんですね紡績工場にいる頃から

上野・・・・・・・古賀政雄先生に憧れていたんですね

遠藤・・・・・・・憧れの、そうしていましたら歌い手の中で誰が好きですかと?古賀先生のいる会社のですね島倉千代子さんの歌。 ひばりさんの歌は勿論ですけれど。私はまず日本的な響きのあるお千代さんの歌が書けれればいいなというのがキッカケで私を紹介してくれる人がいて、そして「からたち日記」が生まれてくるんですね。
上野・・・・・・島倉千代子さんの「からたち日記」ですね。
遠藤・・・・・そして今度「からたち日記」がヒットしたら、やっぱり流しをして北海道から流して流して東京にたどり着いたら駒鳥姉妹と出会う妹にあったような愛情で「浅草スマイル」等
                                        NO,12

駒鳥のねヒットをね出す。もうヒット街道はその辺から生まれてくるんですね。
上野・・・・・・・・・そうした中でも高校3年生という名曲がありますね、これには特別な思いがおありだとー
遠藤・・・・・・・・・・そうですね
お袋に学校にやってくれよもう1度学校に行ったら中学のの証が学生証ももらえて免状も貰えるんだよといってお袋に頼んだ時の「実ごめんね」自分を産んで育ててくれたお袋が子供にゴメンねという謝るこの苦しさ知ってから2度と学校に行きたくないという思いが、、、、そうやるディレクターが見せてくれた原稿の中で高校3年生という原稿の中でそのモノズバリのタイトルがあって、これだと私71歳になります。この体の中にもまだ高校3年生とか中学生とか学校に上がりたいという遠藤実少年なんです。存在しているんです。その存在している少年が歌う歌が学園ものでありせいしゅんものであり。そして10年たて森まさこの『先生』『同級生』『おかあさん』と続くですねー

上野・・・・・・それではその思い出の『高校3年生』舟木一夫さん
遠藤・・・・・・まさにねもうね学校に行けなかった僕もこんな明るい歌が書けた之を作った時の喜びねーえー
上野・・・・・・その曲を聞かせていただきましょう。

遠藤・・・・・そうですね私が29歳の時に舟木君が入門してですね名古屋から常松さんという方がスカウトしてきてですから舟木君でデビュー40周年をやっている最中ですから30歳の時発売した歌ですね。私が70歳ですから丁度40年です。

上野・・・・・この歌の中に30歳の時作られた、頭の中に遠藤さんが新制中学校ができたけれども行けなかった、勿論高校にも行けなかった、その思いが込められている訳でございますか?

遠藤・・・・・そうですね、ですから、これを今のような軽快なリズムじゃないユックリと歌う時があるんです。そのときはねーお袋や親父あの時住んでいた本当に屋根に草が生えていたような小屋の風景。そういったものが浮かんでくるですねー涙が出てくるんですねー

上野・・・・・・軽快な歌ですね、それぐらい進学したいという夢は希望は大きかった訳ですね。

遠藤・・・・・・・そうですね
いまも71歳の心の中にその少年が存在しているんですから。私には青春は無かった。人の様に楽しい青春が無かった。だから歌をこの青春と言うものの歌を書くときます。この年齢になってもいつでも私、青春ですよ。ええ

                                 NO,13

上野・・・・・・・・・ということで色んなヒット曲を生み出してきた。そしてまた色んな歌手の人たちと、あるいは作詞家の方々とのお付き合いがあったんですけれども、そうしたこの私達の良く知っている歌手の方々あるいは名曲に対する秘話と言うものを・・・・・・

遠藤・・・・・・・・・・はい、、、あのー橋君もやっぱりお坊ちゃん刈りで可愛くて14歳少年時代ですよお母さんがいろんな雑誌で遠藤実と言う人は親孝行だと自分が苦労しても仕送りを忘れないというようなとこを見たんでしょう。どうも末っ子は甘く育ちがちだから、ああいう親孝行の先生の所に預けておけばですね歌い手にならせるというような最初希望じゃなくて不良にならないだろうとゆうことであのシッカリされた百さんというお母さんがあのー可愛いね橋君の当時の半ズボンをはいて内で通ってた頃ですから・・・・エーですから、それが吉田先生の学校に転校してですから一応僕の門をくぐった御三家の中では橋君も船木君もそうです。その次に何といっても千昌夫君が『北国の春』『星影のワルツ』でもってですね彼が又入ってくるときは岩手から突然来ましてね、えーもう弟子にしてくれと。やっぱり丁度「浪曲子守唄」でデビューをさせた一口太郎の出世物語を何かの本で読んで俺も行くベーということでね岩手から来た訳ですね。その頃家出組みの中で遠藤実さんのところに行って遠藤さんのところに行って歌い手になりますというね書置きを置いて家出する人たちが統計、或る新聞で取ったら60パーセントくらいいたんですね。ですから家出組みが朝になったら並ぶんです。やっとね小林旭の一連の・・・でもって「からたち日記」とか「浅草姉妹」とかとといった印税で初めて家を建てた高広というところに、そこの玄関にズーット並ぶんです。コーいわれたらコーいいなさいというね家出の人を返すマニュアルを作ってね其れを持たせてね其れ専門に新潟からお手伝いさんお役をですねお願いをしていたんですよ。こーいわれたらあーいえマニュアルを持っているんですけれども、どうしてもみんな帰るんですがこの人だけは帰りません。どんな人ですかといったら何かねチョットラッパズボン風のを穿いてね悪い男じゃありませんけれどもというね、そんなにシツコイ男だったら、じゃー僕が説得するから呼びなさいって呼んで入ってきたのが阿部健太郎というですね岩手からの高校2年生だったんですね。そして入ってきたらゴメンくださいとか初めましてとか言って入って来るかと思って私、応接室で新聞読んで待っていたら入ってきて突っ立ってるままなんですよ。『何だお前人の家にしかも僕のとこに訪ねてきて先生ごめんなさいとかってこといえないのか !』って僕はツイ怒鳴ってしまいましてね。そうしましたら『岩手の方にはごめん下さいという言葉はありません』というんですよ。『なんて言葉があるんだ』といったら『ゴメンくださいませ』とか何とかっていったんですよ。『何でもいいから貴方の名前でも何でもいいから方言でもいいからチャント言いなさい』そういって座らせて、それがキッカケで非常に歌わせたらば年に似合わない人生の哀感を感じたんですね。又歌う時に最初高校3年生を歌うというからマー私は自分の歌ですから弾いて見やったら私は君に似合って弾いてやったんだ、私のピアノは弾きにくいんです私のピアノはなれてるキーじゃないですから、はい、黒けんの一杯繋がって。そしたらいきなりその阿部健太郎なるものが私のピアノの手をボーンとね押さえつける。『なにするんだよ』といったら『こんな下手なピアノじゃ歌えません』

                                      NO,14
それから何かもう1曲、そうした、もう1曲高校3年生を歌うっていうんですね。それが岩手ではね原っぱなんかで遊んで歩いて、で木の上に登ったりなんかして気持ちがいいとねどこまでも伸ばすいいところはね、追分みたいになってしまう・・・・・・・・俺はこんなつまらない曲作ったかと思うほど・・・・・・・・・
その時です凄いのは、いきなり座ってるソファーを持ち上げるんです。それで歌うっていうんです。何でだっていったらね、いまやっと気がついて本当の遠藤先生の前で自分がいるという事に気がついてやっと落ち着いて気がついたら足がガクガクしてね・・・・・・になったから・・・こういう時には重たいものを持ってると安定しますから。なるほど面白いことを言う奴だなーということで・・・・其れで聞いたら高校2年生学校『卒業して高校3年生卒業してから、いらっしゃい。お父さんお母さんの許可を持って、そしたら弟子にしてあげる『じやー先生名刺くれませんか?』そこに其れを書いてくださいというんです。何か用意周到だねーなかなかねー僕は名刺をあげた遠藤実ってね今度卒業したら弟子にするということかいてね。その名刺が嬉しかったんでしょうね。夜行で帰るのにね寝ている人まで叩き起こして『私は遠藤実にあって来た』とそんなのお前の勝手だと喧嘩になるくらいに、僕に会えたことが嬉しくてね、そっから1週間もしないうちに布団見たいの送ってきて無理やりに私のところに押しかけ女房というのはありますが押しかけ弟子ですよ、千昌夫君がね。よくでも頑張って色んな苦労に耐えながら、彼の『星が陰のワルツ』の時は好きなイワンコードでもって『星が陰のワルツ』を歌ってサンドイッチマンみたいに自分でボール紙に『星が陰のワルツ』千昌夫って書いて、あの有線の放送にね歩いて回歩き捲くったそうですよね、
上野・・・・・・所謂根性、正念がすわっているというか根性のある少年だったんですね。やはりそれだけヒット曲を出す方は、それなりに個性があり
遠藤・・・・・・・そうですよ皆個性があり一口太郎もあんな声じゃなかったんです。でも個性を作る為にはいかにも浪曲家出身な声帯を潰していぶしキングのようなそういう言う声にしなければいけないということで声を私のところで全面的に変えたんです。冬の寒中にですね寒中げいこじゃありませんが・・・・・・・浪曲家が声を潰すようなことを駆け足で肺活量を付けながら複式呼吸をさせながら喉を打つ、本当に何回も血が流れるようにして枯らしたんです。そういう苦労をしていますよね。彼らたちはあの駒鳥たちが弟子になった時もですね、終わってラーメンを食べさして『美味しかったかい?』ったら『おいしかった』って『君たちがね誰でも都会からきて先ず美味しいと思うのはラーメンの味だと』故郷から離れて来て故郷を思う、そういう言う心の人たちにね温かいラーメンの味の歌を歌ってくれと言うのが僕の第一声ですよ。それもこれもですね私がやっぱり終電車でもって妻と会って、そしてラーメンを食べた時の温かさ懐かしさ、それがやっぱりそういう指導をするということになるわけですね。ですから『クチナシの花』という歌は、飛びますけれども、あの歌もですね、やっぱり指輪を買ってあげたくとも買ってやれなかった。流しのギターを背負いながら間口一軒くらいの駅のまん前の時計屋であの指を買ってあげようか?この指を買ってあげようかと?そういう思いが印税が入ってレコードがヒットしてからたち日記がヒットした時にやっと毎日穴が開くほど見てた指輪を買ってあげた。オパールのおもちゃみたいな指輪ですよ。でもその指輪をやった時の喜んだ妻の顔ね、そういう思いがあの原稿を
                                    NO、15
見たときに今では指輪も回るほど痩せてしまった前の○○・・・・・・・・そこにあの妻の喜びの顔がその歌を作らせるという。
上野・・・・・・・・内助の功の厚かった奥様ですが、すでにお亡くなりになった・・・・・・

遠藤・・・・・・・・そうですねー10年平成5年の5月に亡くなってますよ。そして私時間があったらですねえー3650本の煙草というタイトルでね何か短い文章でも書きたいなーと思ってるんですね。其れはなぜかというと煙草が好きだったの、そしてですから亡くなってからお線香と煙草を1本ずつ毎日私は1本ずつ吸って上げてくる。それが10年でマー365日として3650本になる、うん、その思いをね妻の思い出などを含めながら書いてみたいなーと思ったりしています。

上野・・・其れでは毎日1本の煙草を吸われる間、奥さんと対話してられるんですね。

遠藤・・・・・・・そうですね、結局人間というのは姿が見えてるときには甘えがあって夫婦でも、許される範囲の偽りもありますよ、駆け引きもありますよ。でも夫婦ばかりジャやなく友人でも知人でも親子でも姿が見えなくなってはじめてね真の対話ができるんですね。僕が講演をする時にいつも話しをするんですけど、私のように片方が姿が見えなくなったならば心の中にその人を住まわせて何処へ行くのでも一緒に行ってくださいよと。そうでなくてお2人ともお元気だったら生意気のようですけれども、もっと仲良くもっともっともっと仲良くお暮らし下さいというのが私の講演の話の中の一端でございますけれども。亡くなると妙なものでいいことバッカリが思い浮かんでくるんですね玉にはね、もう憎たらしくてもう別れようかという喧嘩したことがドンドン浮んでこえばいいのに、やさしかった良いことばかりが浮んできて涙が零れる。だから、いつ?あの歌がヒットした時かな?この歌がヒットした時かな喜ばせたのは?そしてうんと愛したのは妻のお陰だって愛したのは一体いつだろう?いつだったろうと
僕は亡くなってから考えたことがあるんですよ。それがタマタマ今だと気がついたのは7回忌の時ですねこの7回忌の今日が一番妻を愛してるという事が気がつくんですね遅い過ぎていけない人間だと思いましたね。

上野。。。。。やっぱり生前目というか面と向かっていつでも会えるときはありがたみの分からないものなのでしょうか?
遠藤・・・・・・・・・そうですねやっぱり姿が見えるときに本音で素直になってこころ開いて話をしなければいけないなーと。そしてその葬儀に出てくれた弟子達はほとんど来ていましたね。みんなが言った言葉はママさんが優しくしてくれたから私達は遠藤学校に通って来れたんですと先生だけだと、とってもじゃないけど辞めていましたと。みな私を鬼のごとく言ってくれましたけれども妻は無償の愛で弟子を可愛がった。ですから私らが元気で持って仕事をする。いい歌を書いて良い音楽を書いて貧乏するんだったら私本当に悔いは無いといいました。だけど『あなたが違う仕事をして色々金持ちになっても貧しくなっても。そんなものはもうかまわない私は出てゆくと、
                                 
  NO,16
貴方の歌が貴方の音楽が好きなんですとだから何も食べなくともチャーハン蕎麦屋で取ったり焼肉を真ん中から筋を付け合って、ここからお前だと食べあった。しかしいつも食べる時には僕の食べるのが早くて自分が遅いから私もうお腹一杯よそういって9年間の流し生活をね支えてくれ。作曲家としてもね、になっても自分が表に出るのは嫌です.絶えず1歩下がってね本当に自由自在に私に仕事をさせてくれた遠藤メロディーの1番の理解者は妻節子であり、ですね。そして本当に私の歌を愛唱してくださった皆さんのお陰、皆さんの皆さんのお陰に

人間というのはね一番身近に或る人気様神様はネ
お陰様という神仏だと思います
親孝行しようと今言うと笑うんです。
いまさらソンな言葉は聞きたく無いと。
そんなこと言われるまでもわかってますよ。
そんな平凡な事聞きに来たんじゃないんですよ。
もっと芸能界の面白いお話かね
、もっと云々という事を」言いますよ。
しかしですね平凡の話を聞いて感動をする心
その素直心というものを失ったら
どんなにえらい肩書きを持ってる人でも私は軽蔑します・
そういう点で本当に私は、
あのー何時までも素直な心を持ち続けたいと思います。
これからは女性の男性の愛の歌も結構です
若い人たちの楽しい歌も結構です。
でもドキュメンタリーな
いま時代がどうなってるのか
社会はどうなってるのかという
その話題になっているものも歌にするべきだと
そして歌は広がるという力を持っていますから
大いにそれでもって関心をですね
高めてもらいたい
人ごとじゃなくてですね
上野・・・・・・・・春の無い冬は無い最近作られたこの曲は
拉致被害家族の人の為に作られた訳でございますね、
遠藤・・・・・・・・・・・ええ励ます為に、そしてそのー音というのは広がりますから北朝鮮の人たちにも
                                 
 NO,17

この歌がメロディーが届いて欲しいなーと北朝鮮の人たちにも私の作った『星影のワルツ』や『北国の春』『道ずれ』歌ってるんですから、其れを作ったl作曲家が作った『春の来ない冬は無い』
という歌に本当に聞いて欲しい
ああら拉致はいけないんだとそういうことになればなーという願いはありますね、

上野・・・・・・・・・・・・・それでは『春の来ない冬は無い』聞かせていただきます。遠藤実さんの歌でございます。

遠藤・・・・・・・・・・・・今、日本は見えてるものがぜんぶ大繁栄をしていると思うんです。
ところがモンゴルの草原の音楽祭でモンゴルにここ2年ほど行ってますが、まだ終戦後の日本と同じ様に冬はデスね、お父さんお母さん達にですね冷たくされて子供達が居場所も無くて空になったマンホールの中に7,8人ずつ暮らしているんですねそしてお腹を空かしてると
私達がおみやげにお菓子や何か上げますとね本当に喜んで喜んでその目の美しさをね
忘れられませんね日本の子供が余りにも何でも自由に成り過ぎて、あの終戦後の、もう昔の事だと大人も思いすぎていて、ところが現実に今終戦を迎えた日本と同じ様な苦しさを持ってるアフガンでも何でもモンゴルでもそうです。しかし目の美しさがモンゴルの夜空に輝く満点の星の様に輝いていた・

之は何なのかと言う事を考えて欲しいですね。
もっとやっぱり原点に戻って
おじいちゃんおばあちゃん達がお話をしてくださるんであれば昔はこうであったというね
その苦しかった貧しかった日本
今心の方が貧しくて
見えるものの方が繁栄しているだけで

私もそうです。私自身もそうです
あの頃の心と貴方の今の心とドッチが綺麗ですか?
私達ははものが食べられなくて魂を拾ってタニシのお母さんタニシを見て
田んぼで泣きじゃくった遠藤実の方が綺麗ですよ私自身は反省しますよ・

どうもありがとうございました・








その全文を紹介したいのだが・・・・・・

如何なものかな?