はてなダイアリーヲ検証するかなー?
僕が青年時代に大きな影響を受け、
今でも尊敬する方にバグワン・シュリ・ラジニーシと言う宗教家がいた。
バグワン・シュリ・ラジニーシのダイアリーを検索したら
意外なコメントを残されていたので、修正せずに丁寧に
私見を交えずに加筆させて貰ったら以外にも意外なコメントと共に割愛されていた。
その理由は、エッセイを書いたらいけないと言う事のようである。
果たしてこれがエッセイだろうか?僕はありのままのバグワン・シュリ・ラジニーシ
の思いを記させていただいただけなのである。
ただし純粋に事実をありのまま書くということが、どこまで可能かどうかはなはだ疑問である。
かならず物事には何らかの主観を伴うものであるからだ。
例えばSEXと言う定義を例にとってみても
繁殖の為の行為とされるが、繁殖は意識的にコントロールするのが一般的。
ステキな事だけれど、義務と責任もついてきます。
と言うコメントが公然と載っている。何の疑いも無く。
一般的な見解として載っているのだと思う。
ただ単に、この方にとってSEXが繁殖の為の行為だと思っているだけのことで、もしかした
ら繁殖を目的としない事が正しいのかもしれません?
(極端でごめんなさい。譬えです・・)
現に繁殖を目的としない方も沢山いるのです。
僕が言いたいのはモノ事には様々な側面があるし、
あっていいのではないかと言う事です。
それをいちいち厳密に顕微鏡を使って。
毛の奥まで見極めるような判断を下す事も無いのではないかと言う事です。
読んだ本人がどう感じるか?そのことが大切だと思うのです。
そして、その事はその人に委ねるしかないのではないかということです。
以下に割愛されたものを公開いたしますが何の躊躇も後悔も未練もありません。
【Rajneesh】バグワン・シュリ・ラジニーシ(1931-90)。
インド人宗教家。和尚。
以下割愛
教団を率いてアメリカで村を乗っ取り問題になった。
性愛(タントラ)を最上のものとしてフリーセックスを奨励した。
このコメントに対して僕のコメントを加筆しただけです。
というような意見をもった方もいるようですが、
僕の中のバグワン・シュリ・ラジニーシは全く逆である。ほとんどの宗教がSEXを否定し悪のように否定的に捉える、その捉え方を
バグワン・シュリ・ラジニーシは歪だ不自然なモノだと排斥しただけではなかったか?なぜならば拒否されたものは何処までも心に突き刺さり、(拒否される事で様々な性犯罪性的な倒錯が増えているという現実もある。現に世界中いたるところで性は公然とお金で売買されている。)
欲情ヲ抑えることが性を歪め、歪んだ環境を作っているのでは無いだろうか?
SEXと正しい関係を作ることができるのは抑圧ではなく、越えること。可能なのはSEXを拒否するのではなくただ純粋に神聖なものとして受け入れ尊ぶ事が可能になってからである。
SEXを神聖なものと認めた時に僕達はもはやSEXに捉われてはいないだろう。
どの様に尊ぶかを学ぶ必要があるのだと思う。
本当のSEX
真実の
神聖なSEX
超SEXを、こそ教えなくてはならないのだ。
何処かの教師が性教育と称して
未だにコンドームを使用したことも無い若い純粋な先生が、
これまた純粋な生徒の前でコンドームの正しい使い方を教えているような
日本の教育者の実態を誰もおかしく感じないのか?
かなりユニークな事に思える。
また教えられたら即誰にでも試してみたくなるのが当たり前である。
性の何たるかを知らない者がいきなり行動するのは怖いことである。
車の脅威を知らずにいきなりキーを回して
車のエンジンを全開に回して走り始めるようなものである。
僕には教育の現場がまるで集団で性器を弄んでいるようでならない。
公衆猥褻罪適用である。
公然と行われている教育の前に何か肝心なものが欠けているようだ。
教育者の性のモラルと比べてみてもどちらが自然なのかが容易に理解できるだろう。バグワン・シュリ・ラジニーシはSEXを何処までも神聖なものに感じていた方であって、
我々が考えるような低レベルのSEXを推奨したのではない。
よくフリーSEXヲ勧めたといういわれ方をする方がいるけれども、
SEXをより神聖化しようとしただけであってSEXそのものを奨励したのではない。譬えるならばSEXではなく超SEXをこそ求めていたのである。
神聖なものに没入しきった脱SEXと言い換えるならば理解していただけるのではないか?
SEXではなく脱・超・SEXを推奨したのである。欲情する何ものもない
ただ神聖なものを神聖に扱う心に満たされている時にのみ可能な
瞬間の行為をSEXという。
SExは本来神聖なものであり神聖に扱うべきものだと思う。
あえて僕はフリーセックスを勧めたという方の意見を否定はしない。
明らかに間違いであるかもしれないが、間違いだからといって拒否はしない。
そう思う方がいるという事実を示しておく事も大切だと思うからだ。
最も大切な事はSEXを欲情の快楽の道具のように扱う事だろう。
神聖なものにSEXは変容するという事を誰も認めることが出来ない悲しさを感じていただきたい。