丁寧語を皆さんで考える?

貴方はこんにちは?ヲ使いますか?

それともこんにちわヲ使いますか?

僕は上の「こんにちは?」を使います。

どちらが正しいのか適切なのか検証する方がいるのですね・・・・

以下抜粋いましたので

どうぞ皆さんも共に考えてみてくださいね。

昨日は

カウンターが224を記録

中村文昭に感謝かな?





「今日」という言葉に音読みでかなをふる場合を考えてみよう。

「今日」に「けふ」と振り仮名を振るのは、「今朝」に「けさ」と振り仮名を振るのと同じ

という意味では、一貫性がある。


「今」という漢字に「け」を振り、「日」という漢字に「ふ」というかなをふることによ

り、漢字とかなの対応が一対一に対応しているという意味では、合理的なのである。これだ

け一貫性があって合理的で、なおかつ「本来の使われ方」にそった仮名遣いにもかかわら

ず、「けふ」という振り仮名には違和感を覚えてしまうものなのだ。げに恐ろしきは習慣で

ある。

このことから、一般的に言って、違和感と「元々の使われ方」には直接の関係がないこと

が、お分かりいただけると思う。


何度も言ってきたが「こんにちわ」に対する違和感とは単に慣れの問題なのであり、

正当化されるべきものではないのだ。

ところが、こんにちわ撲滅委員会では「こんにちわ」というたったひとつの例をもとに、

違和感と「元々の使われかた」には相関関係があるかのごとく主張し、さらにはその相関関

係を因果関係に、無反省に昇格させてしまっている。

ここに合理的思考のかけらもないことは明らかである。


さらに「英語でHelloと書くんだから、日本語で『こんにちわ』と書いてもはおかしくな

い」などとのんきなことをいっている。あまりにもひどいので、最初読んだときは「面白く

ないジョーク」だと思ったぐらいだ。

「こんにちは」に限っていうと、「こんにちは」の「は」に助詞としての意味が失われてい

る以上、「こんにちわ」という表記にも十分に意義がある。

結局のところ、これは個人の趣味の問題、もっというと信仰の問題なのだ。「検証」などす

るのはばかげている。

ところで、あらゆる信仰に関して以下のガイドラインを設けることには同意していただける

と思う。

自分の信仰を他人に押し付けてはいけない


信仰を基準とした偏見を持つべきではない


信仰を正当化するのにエセ科学を援用してはいけない

こんにちわ撲滅委員会の会員さんたちの言動は、このガイドラインにすべて抵触する。私は

信仰を否定しない。しかし、恐ろしいのは彼らが自分の信仰を信仰と思っていないことであ

る。原因はこんにちわ撲滅委員会に書かれている「検証」という名のエセ科学にある。信仰

エセ科学が結びついた瞬間、それは狂信になる。自分の信仰に合理的な根拠が得られたと


思った瞬間、人間は残酷になる。こんにちわ撲滅委員会がカルト化したのは、当然のなりゆ

きである。

さて、なぜ私が歴史的仮名遣いの意義を学校で教えるべきと考えているか、お分かりいただ

けただろうか?現代仮名遣いというものが、恣意性の塊であり、妥協の産物であることを知

り、歴史的仮名遣いの意義を知ってさえいれば、「こんにちわ」という表記に対する自分の

違和感を相対化することが可能であったろう。


そのためにこそ歴史的仮名遣いの意義を教えるべきなのだ。やはり無知は罪である。歴史的

仮名遣いを教えることによって表記が乱れる、と心配されるかたもいるかもしれない。しか

し、表記の乱れを恐れるより、無知による偏見を恐れるべきだと思う。

私は「こんにちは」を使う。いつか「こんにちわ」が認められたとしても「こんにちは」を

使い続けるだろう。しかし、それが一種の信仰だということを知っている。



貴方はこんにちは?ヲ使いますか?

それともこんにちわヲ使いますか?

僕は上の方を使います。





「今日」という言葉に音読みでかなをふる場合を考えてみよう。

「今日」に「けふ」と振り仮名を振るのは、「今朝」に「けさ」と振り仮名を振るのと同じ

という意味では、一貫性がある。


「今」という漢字に「け」を振り、「日」という漢字に「ふ」というかなをふることによ

り、漢字とかなの対応が一対一に対応しているという意味では、合理的なのである。これだ

け一貫性があって合理的で、なおかつ「本来の使われ方」にそった仮名遣いにもかかわら

ず、「けふ」という振り仮名には違和感を覚えてしまうものなのだ。げに恐ろしきは習慣で

ある。

このことから、一般的に言って、違和感と「元々の使われ方」には直接の関係がないこと

が、お分かりいただけると思う。


何度も言ってきたが「こんにちわ」に対する違和感とは単に慣れの問題なのであり、

正当化されるべきものではないのだ。

ところが、こんにちわ撲滅委員会では「こんにちわ」というたったひとつの例をもとに、

違和感と「元々の使われかた」には相関関係があるかのごとく主張し、さらにはその相関関

係を因果関係に、無反省に昇格させてしまっている。

ここに合理的思考のかけらもないことは明らかである。


さらに「英語でHelloと書くんだから、日本語で『こんにちわ』と書いてもはおかしくな

い」などとのんきなことをいっている。あまりにもひどいので、最初読んだときは「面白く

ないジョーク」だと思ったぐらいだ。

「こんにちは」に限っていうと、「こんにちは」の「は」に助詞としての意味が失われてい

る以上、「こんにちわ」という表記にも十分に意義がある。

結局のところ、これは個人の趣味の問題、もっというと信仰の問題なのだ。「検証」などす

るのはばかげている。

ところで、あらゆる信仰に関して以下のガイドラインを設けることには同意していただける

と思う。

自分の信仰を他人に押し付けてはいけない


信仰を基準とした偏見を持つべきではない


信仰を正当化するのにエセ科学を援用してはいけない

こんにちわ撲滅委員会の会員さんたちの言動は、このガイドラインにすべて抵触する。私は

信仰を否定しない。しかし、恐ろしいのは彼らが自分の信仰を信仰と思っていないことであ

る。原因はこんにちわ撲滅委員会に書かれている「検証」という名のエセ科学にある。信仰

エセ科学が結びついた瞬間、それは狂信になる。自分の信仰に合理的な根拠が得られたと


思った瞬間、人間は残酷になる。こんにちわ撲滅委員会がカルト化したのは、当然のなりゆ

きである。

さて、なぜ私が歴史的仮名遣いの意義を学校で教えるべきと考えているか、お分かりいただ

けただろうか?現代仮名遣いというものが、恣意性の塊であり、妥協の産物であることを知

り、歴史的仮名遣いの意義を知ってさえいれば、「こんにちわ」という表記に対する自分の

違和感を相対化することが可能であったろう。


そのためにこそ歴史的仮名遣いの意義を教えるべきなのだ。やはり無知は罪である。歴史的

仮名遣いを教えることによって表記が乱れる、と心配されるかたもいるかもしれない。しか

し、表記の乱れを恐れるより、無知による偏見を恐れるべきだと思う。

私は「こんにちは」を使う。いつか「こんにちわ」が認められたとしても「こんにちは」を

使い続けるだろう。しかし、それが一種の信仰だということを知っている。